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鉄工業・鋳造業の発展の歴史

1.交通の要衝としての長岡工業立市

長岡の町が成立し本格化に発展を始めるのは江戸時代に入った頃である。江戸時代には、 長岡には江戸から佐渡金山に至るルートのひとつであった三国街道に位置し、越後から関東 に向かう出口にあたっていた。近代になり北陸へのルートとの交差ともなり、長岡は新潟県の交通の要衝に位置するようになった。また、物資輸送にとって重要な信濃川水運の権 利を長岡商人が独占していたことから、水運が長岡商業の大きな部分を占め、大阪への米の輸送でにぎわっていた。しかし、1867年にはこの独占権が消滅し、自由航行が認められるとともに水運関連の商業は衰退していった。しかしながら 上越、北越など鉄道網 の整備に伴い、交通の要衝としての長岡の状態はそのまま堅持されることになった。

戊辰戦争によって壊滅的な被害を受けた長岡では、明治2年に藩士の窮状を救うための殖産事業として藩営の養蚕が始められた。その後の幾多の失敗を重ねたが、結果として長岡に織物業の技術基盤をつくることになった。また、商業研究団体共愛会(若手商業者)、ランプ会などを設立、住民が真剣なって長岡の将来を議論した(明治12年)。このころから長岡は工業立市がめざされていたといわれ、今日の長岡における製造業の基盤形成の原点が見られる。共愛会はその後、広く有力者も含め活動の幅を広め 諮詢会となり、ここでの議論を実行に移すためにつくられた三夜会も活動した。この諮詢会が後の長岡商工会議所となり(明治38年)、長岡市の工業振興の旗振り役として活躍することになる。

2.石油開発による産業の発展

明治20年頃には東山油田が開発されたことによって、石油が明治期の長岡の産業の中心となった。米と石油の輸送に北越鉄道が使われ、長岡はその交通の中心となった。その後、製油所もつくられたが、輸入原油に押され、製油所は太平洋側にうつり、大正年代を通じてその地位が低下していった。

しかし、この石油産業の興隆によって 地場の鍛冶屋は石油掘削のための鉄製器具を生産する鉄鋼業へ脱皮していった(難波製作所:)汽罐汽機と削井機、須藤鉄工所:石油発動機)。また 大手としては、日本石油新潟鉄工所長岡分工場や北越鉄道長岡工場、さらには長岡鉄工所組合(後の長岡鉄工所)が、掘削機械の修理や貨車の修理工場として設立された。これらは、その後修理でのノウハウを蓄積し関連製品(石油発動機、削井機など)を開発、成長していった。

3.工作機械の製造と機械工業の発展

大正時代に入り、長岡では須藤鉄工所、難波鉄工所、長岡鉄工所などで工作機械が製造され始めた。これと併行して機械鋳物もせいさんされるようになった。しかしながら、長岡の中小企業は原料入手能力に欠けていたため受注はあっても生産を伸ばすことができなかった。

第一次大戦は長岡の鉄工業を大いに発展させる原動力となり、その結果、市内第一の産業としての地位を確立した。しかし、第一次大戦後、戦後不況と石油産業の衰退によって、長岡の鉄工業は、従来の石油関連機械や工作機械依存から農業用、漁業用、あるいは工業用の各種機械へと製品分野を移さざるを得ない状態に陥った。

このような昭和恐慌を生き残った長岡の鉄工業はその後の満州事変以来に未曾有の黄金期を経験する。すなわち、長岡の鉄工業が軍需産業化したことで軍需による恩恵を受け、昭和13年には市内の工業出荷額の43%が鉄工業の生産で占められるように至った。生産品は主として軍事用の工作機械、砲弾、砲架といった兵器と石油削井機であった。昭和19年には大手の軍需会社4社だけで5000人の従業員を抱えるほどになっていた。

【戦前の長岡における鉄工業の生産】
戦後の機械工業の推移

4.工作機械の製造と機械工業の発展

長岡は第二次世界大戦での攻撃によって戊辰戦争以来2度目の全焼に近い被害を受けたが、北部の軍需工場は全く被害を受けず残った。このため、長岡市の機械工業は、軍需工場をベースに昭和20年代には戦時中の軍需依存から紡績機械、工作機械の製造といった民需への転換を積極的に行い新たな発展の基盤を作り上げた。

昭和30年代に入り、投資が投資を呼ぶ民間設備投資の時代が到来、長岡市の機械工業は得意とする工作機械の製造によってこの波に乗り、飛躍的に発展することになった。昭和40年当時の機械工業の企業は大まかに次の3つのグループに分けられるが、これらの企業のうち①と③のグループの企業が昭和30年代に工作機械主軸へと転換している。

①1910年ごろに設立された企業グループ:石油産業と関連してその機械修理・製造を目的としたもの(大原鉄工所、新潟鉄工所長岡工場、大阪機械製作所長岡工場の全身である長岡鉄工所)、
②昭和に入って(1930年ごろ)設立された企業グループ:鉄工業が石油関連機械から製缶等へ転換しつつあるときに参入したもの(日曹製作所長岡工場、津上製作所長岡工場)、
③昭和20年代前半(1950年ごろ)設立された企業グループ:繊維ブームの中で紡績機械を主軸として設立されたもの(倉敷機械工業、大阪機械製作所長岡工場)

また、この時期に新たな工作機メーカの参入もあり、昭和30年代の長岡の機械工業は工作機械を中心に成長していった。ちなみに、昭和30年以降設立された工場71のうち70%が部品も含め工作機械に関わっており、「工作機械の長岡」のイメージが定着することとなった。

一方、工作機械の部品の元である鋳物を提供する鋳物工業は地元の機械工業からの受注に依存するという構造になっていた。そこから生じる機械工業と鋳物屋の間の絆の強さは、逆に新規参入を困難にし、長岡の鋳物業の展開を狭めたといわれる。

【戦後の長岡における機械工業生産】
戦後の機械工業の推移

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